それが良い習わしなのか、悪しきしきたりなのかはともかく、京都の町衆の家では、いわゆる「褻」と「晴れ」、つまり「ふだん」と「おもて」、ですから日常の生活の場と、
客を迎えたり祭りを祝ったりする場とを厳格に区分して生活しています。
私自身も、世の中にいわゆるリビングルーム的生活様式が存在することを初めて知ったのは、国民学校(今の小学校)三,四年生の頃、東京から越してきた同級生のうちへ遊びに行った折りでした。
ですから、いわゆる座敷とか茶室とかは、普段は聖域として、子供など一切出入りを許されず、時折、父親が来客と、なにやら深刻げに、また愉しげに談合しているのが遠くから聞こえる、神秘の空間でありました。
「お客さんにはどんなご馳走が出てるのやろ」と想像しながら家の者たちは台所の片隅でニシンやボウダラを噛っていたのです。
そして、一旦、大勢の客をまねく、たとえば法事の宴とか、お祭りとかになりますと、この神秘の空間は、その様相を一変します。
まず、すべての障子が杉の柾目を使った客用のものに取り替えられ、各所の襖、床がまちにいたるまで晴れ用に変身します。
食器も、もはや女衆や男衆はもちろん家族のものも触れさせてもらえません。
道具屋の丁稚さんや番頭さんが登場して、うちの蔵の棚に並んだ「親唐渡」だの、「塗師なんとか」だのと書かれた箱を運びだして、自分たちの手で並べ、宴会後も、自分たちが洗って、また蔵に納めて辞去する、といったありさまでした。
敗戦による没落で、もはやその面影すらなくなった今も、私の実家の蔵を覗くと、往事の客用の建具が、忘れ去られ幽鬼のごとく立ち並んでいます。
さて、祇園祭の宵山も、そうした「晴れ」の場面の最大のものの一つなのです。
ですから、ふだんは蔵に秘蔵されている屏風を運び出して飾ったり、軸箪笥という、軸専用の四角で奥行きの深い箪笥の棚から、特に大切な掛け軸を取り出して床の間に掛けたりして客をもてなす、 というのも、私ども町衆の子供たちにとっては、年中行われている、あの「褻」と「晴れ」のリズムの単なる一つの波、しかし、最も高揚感と興奮度の高い波であった訳であります。
私たちも風呂に入って身をきよめ、よく糊のきいた浴衣を着せてもらって、ワクワクと待機します。
その宵のみは、あの神秘の空間も、こんな子供たちの前にさえその栄光と優雅の姿すべてを開示してくれたからでした。
とりわけ楽しいこんな「晴れ」の宵であってみれば、道行く祭り見物のかたがたも、せめて紅殻格子の間から共に楽しんで頂くに、どうしてやぶさかであるべきでしょう。
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