【
祇園祭セミナー 】 No2 |
【 テーマ 】 明治以降 の 山鉾巡行史のあらまし(要旨)
|
講師 : 山鉾連合会理事長 深見 茂
|

|
|
 |
1)
元治元年の「蛤御門の変」以降の巡行史のあらまし |
「蛤御門の変」は長州と薩摩が御所をめぐって大げんかした戦争で京都の町がほとんど焼け野原になった事件です。
それ以降の昭和30年まで、本来、祇園祭の巡行は氏子の領域を2つの巡行が手分けして回っていました。
今日の日程で言えば、7月の17日に先の祭(下(しも)の祭ともいう)と24日に後の祭(上(かみ)の祭ともいう)が行われました。
■当時の巡行路全貌 (資料―2)江戸時代から昭和30年までの巡行径路 =>  |
|
7月17日はその日の晩に、八坂神社の3基の神輿が御旅所へ渡御されますのでその露払いをしたわけです。
そして7月24日、これが本来の祇園祭のメインイベントで、いわゆる(御霊会:ごりょうえ)といわれる日です。この日に御旅所を出た3基の神輿が氏子の間を全部巡って、ありとあらゆる災いの神を全部神輿に積んで去ってくれる一番大事な日で、それの露払いをするべく9基の山が午前中に巡行したわけです。
従って山鉾の巡行は2回行われていました。これが本来の山鉾巡行です。
|
2) 明治5年、寄町制度の廃止をはじめとする経済的危機。 |
明治維新になり、明治5年に寄町制度が廃止になります。
寄町制度は豊臣秀吉が定めたと言われていますが、一つの山鉾を持つ町内を経済的・人力的に補助すべく数ヶ町が義務づけされていまして、一つの山鉾を守るようにしてあったわけです。(いわゆる協賛会です。)
これが、明治5年に寄町制度が廃止になり、山鉾町に経済的危機が訪れます。特に一番深刻であったのが「鶏鉾」と「月鉾」で、この2つの鉾は質入れか売却という状態に陥ります。
この時に八坂神社において清々講社(いわゆる募金組織です。)を作りまして氏子の間から金を集め、これを「鶏鉾」「月鉾」に貸与して、それによって経済的危機を救ったという事業が起こりました。
その「清々講社」は今日に至るまで存続しています。
|
3) 明治10年、巡行日程の太陽暦への固定化。
|
|
明治6年より太陽暦で、旧暦6月7日、14日に該当する日(太陽暦に移した日)をもって巡行日とされてきた。
つまり、元来この旧暦の6月7日と14日が本来の祭の日だったんです。そして、毎年計算して動かしていたわけです。
ところが、それでは祭日が一定せず不便であった為、この年(明治10年)の該当日(新暦7月17日、24日)をもって恒久的に祭日と決定された。(たまたまそうなったわけです。)
つまり、17日と24日はきわめて恣意的に明治10年に決まった日程であるということです。
|
4) 明治44年 「山鉾巡行を廃止せよ!」との知事令
|
これは市電を引くために架線を張らなければならない、つまり、背の高い鉾は通れなくなります。したがって、市電敷設のために、「もう巡行は止めていただきたい!」と知事が言い出した。
しかし、京都では、山鉾町も抵抗しまして。新聞社等(日出新聞:京都新聞の前身)が反対キャンペーンをはり、町中が大騒ぎとなり、ついに、知事は市電のための知事の巡行廃止令を撤回いたします。
|
■(資料−4)祇園祭を支える力(白楽天山別冊付録)より =>  |
福井(白楽天山役員):ここに町内の資料があるんですがね、明治44年に山鉾巡行ができなくなりかけたことがあるんです。これも交通問題ですよ。
高取:なるほど、府知事から巡行をやめろという内命が下ってるんですね。巡行をやると市電が通れなくなるというわけですか。これは明治の近代化優先主義の象徴的なものですね。
米山(先日亡くなった学者):町衆の側も強いですね。それなら山飾りもしないって決議しているんですから。
高取:ハチマキをしめてやったんでしょうね。(笑)
米山:交渉の末、6月30日に知事より内命の取消があったとも記録されていますね。
福井:ええ、結局、電車の軌道を道路の中央より稍南側に寄せることにして、巡行をやったんです。 |
|
5) 昭和18年、大東亜戦争の戦局悪化と空襲激化により山鉾建て中止。 |
太平洋戦争の戦局が悪化いたしまして、たえず空襲警報にさらされていることになるわけですね。戦局悪化と激化の為にこの年から山鉾建てが中止になります。

その時の状況がどうであったかというと…
ここに、私の当時の日記があります。これを読むとその当時の状況が解ります。
|
■(資料―5)昭和18年:国民学校四年生児童の日記 =>  |
<7月23日> 今日は安田君があそびに来た。ばんのごはんを安田君は僕のうちでたべた。たべてからおこづかひをもらってあそびに外へ出た。ぱちんこをやったがなかなかうまくゆかない、ちっとももうからなかったので、やめてしまった。 五かいはいって十六せん、そんをした。安田君はもうかへってしまったので、僕は家へかへった。さうして、お母さんにあまりのおかねをかへさうと思ったが、お母さんは「あまりのおかねはおこづかいだからあげます」といはれた。 |
|
このパチンコをやったという記事は、夜店は出ていたということの証しなんです。
この安田君というのは、烏丸蛸薬師と錦の間の東側に安田太七商店という店があります。今、あそこの会長をやっている人物が私の同級生で、彼と僕とは小学校時代に兄弟のようにして、行ったり来たりして1日中遊んでいた。これが7月23日で宵山です。
次に祭当日の晩のことです
|
■(資料―5)昭和18年:国民学校四年生児童の日記 =>  |
<7月24日> 今日、安田君の家へあそびに行くと安田君が「今日はぼくのうちでごはんをたべたらいいやんけ。」といってひっぱったので安田君の家でごはんをいただいた。たべると安田君が「おみこしを見てこやう。」と、いったので見に行った。行ってみたが、もうとほったあとだった。ぼくはあきらめてかへったが、安田君はかへらなかった。ぼくがかへって、しばらくすると、安田君がかへって来て「なんだ、君は先かへったんか、ぼくはずいぶんさがしたぞ。」といった。 |
|
この日記から読み取れるのは、「御神輿」は渡御したということです。
つまり、昭和18年の状況ですが、山鉾建ては中止されたが、夜店が出て、御神輿は断固として渡御したということですね。
|
6) 昭和22年、山鉾建て復活。一部巡行。 |
■(資料―1)昭和22年 =>  |
長刀鉾、月鉾のみ、24日まで建て置く。
長刀鉾は、17日に寺町四条まで往復曳行。
清々講社と観光連盟が主体となって「祇園祭山鉾巡行運営委員会」を結成、9月に「祇園祭山鉾巡行協賛会」と改称される。 |
|
したがって、四条通りをちょいちょいと巡行したわけです。
|
7) 昭和31年、当時の高山市長により、祇園祭山鉾巡行を市の観光行政の一環として取り入れ、
観覧席設置による補助が約束されたが、それの代償として、巡行路の変更(17日の前祭のみ)が要請され、実行された。 |
■(資料―3)昭和31年以降の先祭の、現行巡行路 =>  |
四条烏丸集合→四条寺町(四条烏丸)→寺町御池(河原町御池)→御池烏丸解散 |
|
四条烏丸に集合して四条通りを東へ進み、寺町通りを北行(まったく逆行)するわけですね。
これまでの南行きと逆に北行するコースが取られ、御池通りを西に進んで烏丸で解散。これが初めだったんです。
途中から、「寺町通りは狭い。」と、「河原町通りを通ってくれ。」ということで、変更になる。
そして、「観覧席をもっと増やしたい。」と、「ついては烏丸解散ではなく、新町まで行ってほしい。」ということで、新町まで行くことになり、今日に至っているわけです。
|
8) 昭和38年、保昌山を嚆矢(こうし)として、舁き山、順次、車輪を着装いたします。 |
■(資料―1) 昭和38年 =>  |
昭和三八年(一九六三)保昌山、舁き山の四本柱下に小車輪を取り付け、舁かずに押して巡行を開始。以後、各舁き山、次第にこれに倣う。 |
|
つまり、昔は肩のそろった専門家が2〜3時間あまり、ずうっと、山を舁き続けておったんです。
そういう人達が次第にいなくなり、学生アルバイトに変わります。学生になると、到底舁けませんので車輪を着け足した。次第にそれが広まった。
|
9) 昭和41年、前祭、後祭、合同して17日の1回のみの巡行となる。 |
■本年より、後祭の山鉾も17日に合同巡行(それまでは、三条→寺町→四条)。ただし、鈴鹿山は抗議のため不出。 |
|
これらが主なる巡行路の変更であります。
|
◎ 今年(平成18年)は記念すべき年 ====================== |
もう一度振り返りますと。戦後、山鉾巡行の主なる重要な変更は、ちょうど今(平成18年は)から50年前に山鉾巡行の行路が変わったことと、ちょうど今から40年前に先祭、後祭が合体したことの二つとなります。
従って、今年は記念すべき年であると申し上げることができると思います。
|
◎ 新山鉾創設について ================== |
10)新山鉾創設に対する、祇園祭山鉾連合会の現在の立場 |

新山鉾創設の運動は、以前よりあったことをご承知おきください。
■(資料―6) =>  |
米山:これは本当にあったことなんですが、1970年頃でしたか、反戦鉾というのができかかったことがあるんですね。何かエネルギーを結集した場では、祭に参加しようという動きが出て来るんですよ。良い悪いは別として、そういうエネルギーがあちこちで起こってくる。それを吸収することは、山鉾町ではできないし、山鉾連合会でもできないだろう。つまり、京都市全体をにらんでいる側の人が考えなくちゃいけない。 |
|
さて、祇園祭の山鉾巡行は応仁・文明の乱(1467〜)で一旦壊滅した祇園祭の山鉾が復興完了を果たしたとされる明応9年(1500)において巡行した36基(37基との説もあり)のうち、当時から今日まで、その町籍、風流(ふりゅう)、名称がほぼ確実なる35基のみをもって構成されるのを鉄則としている。
* 風流:どういう趣向・名称で出すか。(橋弁慶にするか鯉山にするか・・等)
つまり、500年間変わらない。
尚、今日、35基のうち、3基(大船鉾または凱旋船鉾、鷹山、布袋山)は休み山で、実際には現在、32基をもって巡行しています。
つまり、この3基だけは復活すると言われたら、「山鉾連合会」は受けなければならない。
|
現在の山鉾巡行はこのような変遷を経て今日に至っていることをご理解願えれば有り難いと思います。
以上
|
平成18年4月15日:ボランティア勉強会より
|