20周年公開シンポジウム <日時>平成15年6月29日(日)
          10:30〜11:45

<場所>八坂神社内「常盤殿」

<主催>京都・祇園祭ボランティア21

<後援>八坂神社・(財)祇園祭山鉾連合会
<テーマ>
  「祇園祭にみる守・破・離〜山鉾巡行を守り伝えたもの〜」

<趣旨>
 昭和59年・・京都が世界に誇る祇園祭・山鉾巡行を京都の若者のボランティア活動により支え、併せて京町衆(町中)の伝統と創生にかける心意気を学び伝える・・その夢と志をもって産声を上げて以来20年目の夏を迎え、山鉾32基中20基を任され、500名のボランティアが参画する今・・・
改めて町衆の方々の祇園祭山鉾巡行にかける想いを学び、本活動の今昔を検証するとともに、古学新賞”初心”に回帰する機会としたい。

パネリスト>
 吉 田 孝次郎  (財)祇園祭山鉾連合会 副理事長):北観音山
 松 村 篤之介 氏 (財)浄妙山 理事長):浄妙山
 杉 本 節 子 氏 (財)奈良屋記念杉本家保存会 事務局長)伯牙山
 村 山 忠 彦
   (京都・祇園祭ボランティア21 会長)


< 20年前、(故)伊住政和初代会長 呼びかけ趣旨回顧 >

 京都の青年自らが力を一つにし、積極的に社会に参加する行動が京都の活性化に寄与し、次世代を担う青少年の地域での役割が自らの行動と思考によってえられるものと考える。
 祇園祭山鉾巡行ボランティアは、単に事実上アルバイト大学生に替わることではなく、「参加」に重点を置き、伝統文化の親から子・子から孫への継承を学ぶことを通して、京都での青年の役割を自覚することを目的とする。

(第1回議事録より)

【 挨拶 】(村山忠彦)
20周年にあたり, 今一度初心にかえり、どのような形でボランティア活動が歩んできたか、又その間、山鉾連合会様や各山鉾町の方々がどのような
お気持ちで接していただいたのか、 等々を洗い直し、今後の活動につなげたい。
【 20年の説明 】(村山忠彦)

■20年前、京都には青年団体や青少年団体がいくらもありましたが、それらを統合する組織が無かった。
20年前に故伊住政和初代会長が京都の青年、青少年団体に対し統合した集まりを作ろうと呼びかけ,「京都青少年活動推進会議」が発足し、「京都市成人式」「全国車椅子駅伝」「山鉾を曳く」実行委員会ができました。
そして、それには2つの大きな目的がありました。
■それはは若い人々が一同に会し、一つの力で社会参加、地域参加することによて社会の一員であることを自覚し、少しでも社会貢献をして行こうとの大義名分。
■そして祇園祭は日本を世界に誇る祭であり、京都の町衆の心意気、及び、山や鉾の日本が世界に誇る多くの装飾品、工芸を直接見ることで、
日本人(我々の先人)がそれぞれの時代をどのように生きてきたかを感じ、そして先人がすばらしいことをしていただいたことを思い、 我々はそれを引き継いでいかなければいけない。
■我々はいまだに、その流れを持っているつもりです。
単に山を担ぎ、鉾を曳くだけではなく、以上のような思いを持って我々は活動を行きたい。
■20年すると風化する!! そこで皆様にここで「祇園祭山鉾巡行ボランティア」を行うことの意味、そしてその主旨を
<20年前、(故)伊住初代会長の呼びかけ趣旨回顧><第1回議事録から>の中から再確認して欲しい。(上記)

 


【 ラウンド 1 】  山・鉾の思い出は?
 
■祭の区域には「例年通り」という挨拶がある【 吉田 孝次郎 様 】
■今日は北観音山の人間として発言をさせていただきたいと思います。
■この常盤殿はすごく懐かしい。
 元々北観音山の町内に「三井新町家」があって、その中に常盤殿という御殿がありました。
 私が祭に参加するようになりました昭和23年変則的に祭が復興しまして2年目に「北観音山」は「船鉾」との合同巡行で四条寺町まで行って町内へ戻ってくるという、そういう変則的な巡行がございました。その後の慰労会をこの建物が「三井新町家」にあった時に3年ほど続けて大人や子どもが食事をした場所です。
 ボランティア活動して2〜3年目に連合会の役員をさせていただいた時にこの建物で挨拶をさせていただいた、2重の思い出がある建物です。
■私が昭和23年から50年間は囃子方として、一昨年まで「北観音山」に奉仕させていただき、今では町内を超えて「祇園祭」全体のお世話をさせていただけると言う家宝者です。
■祭の区域には「例年通り」という挨拶があります。
 あまり細かなマニュアルを列挙することなく、「今年も例年通りよろしくお願いいたします。」と言えばだいたい了解し合えるというのが町内の構成員であります。
ただし、例年通りといいましても山鉾浮流ができて600年その間にさまざまな有為転変がありました。
しかし、「例年通り」という言葉で町内の心が一つになれるように、時間をかけて〜〜、祭のあるべき姿というものを決めてきたと思います。
 ボランティア様とのお付き合いも20年もたちまして、確か10年の時のパーティーで伊住様に感謝を申し上げ、さらに言葉を足したことは、ボランティア様に対しても
我々の町内で交わす「例年通り」という言葉が使えれうようになった。と申しあげ、喜んでいただいた。
 20年もお付き合いをしていると、やはり「例年通り」というご挨拶が互いにできる。これはやはり大した意味を持つと思います。
 時間の経過の中でこの人間関係を作って、できあがってくる。 我々の町内における個々人の関わり、各家の祭への関わり方もやはり「例年通り」にお祭りを
迎え、客迎えの設えができ、するのが理想なんです。
 あまりはではでしいお客様のお迎えをしないでおくことが、例年通りにお祭りを迎えられることといいながら、私の家ではやはり祇園祭の日が一番の晴れの日でござ
います。
 今年も「例年通り」にお祭りを迎えられることになれば良いかなと思っているのが今の私の気持ちです。
■ 吉田イズムの原点は?

■私は祭の設えというものは女性に任すべきものではないと思っているのが、吉田イズムの一端かもしれません。
 私は客迎えの設えに関して毎年思考を凝らします。それが構想通りにきちっとできた時というのは一番充実している時です。それが済んでしまえば、後は巡行なんてものは多少格好を付けて楽しめば良いくらいに思っています。
■ただ、朝、昼、晩と主人が着物に着替えるわけですが、儀式に出向く時などに、そういうことの諸準備は全て女性に委ねますし、台所仕事はもちろんです、又男が帰ってきて、帷子を肩に掛けてくれて、帯を占めて帯をポンと叩く、そこまでは全部女性のお世話になります。
 今、私の家内もそのようにやりますし、私の母の時などはもっと父親は威張っていましたから、とても家の外へ出る暇が無いくらいに女性の仕事は刻々とあったようです。
ただ、私の叔母が3人おりまして、非常に祭が好きで、祭が近づくと蔵の縁側の梁に金盥をつるして、囃子のまねごとをしていました。それほど、男も女も祭となれば、それぞれの立場で精一杯楽しむんです。
 しかし、実際「神事係り」が当たると、辻々で誰に何を渡して、どこでどう挨拶をしてなどということを全部覚えていかなければならないわけで、安穏と楽しめるようなもんではありません。
■ けれども巡行が始まってしまえば、後は諸準備が整っているわけですから楽しめばいいんだという心境になっております。

 


「マンションの方々」との付き合い方が課題です。【 松村 篤之介 様 】
浄妙山は六角通りを烏丸から西へ入った戸数28件の町内で、その内17件に家族の方が住んでおります。
 今、我々が祭のことで大変困っていることは町内で所有の会所が無いことです。
 会所には祭の間、御神体等々をお飾りする飾り席を設けるのですが、終戦直後にある事情で処分してしまい、今は、町内の何方かの家にお世話になり飾り席を続けてきております。
 ここ約10年は私の家を開放させていただき、7月13日から1週間、飾り席 として皆様に見ていただいております。
■20年前は私も町内では若手でした。
 その当時は学生アルバイトにお世話になっておりましたが、全て私の家を提供申し上げ、着替え をしていただいておりまいた。
ボランティアになってもずっと私の家で掻き方の衣装の着替えをしていただいております。
 又、 浄妙山では草鞋を使用するのでうすが、その草鞋のはきかたのご指導もさせていただいて おります。
 現在、その他全て私の家でやっていただいております。

■今年、初めて町内にマンションができることになり、この機会に個人の家を開放してやることを無くしたいという町内の皆様の意志もありまして、マンション業者と
話しをさせていただきました。
業者の方へは、この 由緒ある祇園祭「浄妙山」の町内にお立てになることを重ね々々ご説明させていただき、お願いをしてまいりました。
おかげさまで、業者の方も協力的でございまして、設計上から入り口のエントランスからオートロックの入り口へ行くまでの空間を広げていただきまして、飾り席に
ご提供いただきました。
■9月に完成予定ですが、来年からはエントランスを祭の期間中利用させていただいて工夫しながら「飾り席」に利用させていただこうと思っています。
同時にマンションに55戸の方々が入ってこられますが。その方々と既存の町内の方々とどのような関わりを持つか、これからの課題でございます。
私としても知恵をださなくてはいけないかなと思っています。

■ 代々大事にされていること、町家の保存は?

■うちの町内には宇治川の橋合戦、平家物語からの橋合戦の浄妙坊と一階法師の御神体で、それに関連した国指定の重要文化財の鎧がございます。
これは通常一般に出そうとしたら廻りに学芸員がいないといけないとか、ガラスのケースに入れないといけないとか、法律で決まっている通りにやらなくてはいけません。
しかし、町内の所蔵でございますのでお祭りの期間は町内で責任を持って町内で飾る分には法的の規制は受けないとので、できるだけ鎧を出して機会があれば一般の方に真近にご覧いただくことを続けてきております。
■町家の保存について
 町家と言う建物は一旦潰したら現在の「建築基準法」「消防法」では元通り建てることができないんです。
従って、先人がのこしたものは一種の文化財だと私は思います。だからできるだけ大事に次ぎの世代に送る必要があると思っております。
ある意味において私はお預かりしているのではないかと思っておりますので大事に次の世代へ送らなければならないという気持ちでおります。

 


■ 「準備は女性でなければ行きとどかない」 【 杉本 節子 様 】
■私が生まれた家は町家と呼ばれております。この建物は京都市の有形文化財に指定され、建物と杉本家の生活の伝統文化を継承保存する目的で財団法人が設立され、その財団によて建物は保存されております。
 祇園祭との関わりは、私どもの伯牙山の町内は矢田町といいますが、うちの町会所も戦後、諸処の事情により昭和21年に手放しております。
 それ以降、円山公園の収蔵庫ができるまでの約20数年伯牙山の骨組みから懸装品、御神体等一切合切を当家の蔵でお預かりしておりました。
同時に当家の店の間を町会所として「お飾り所」として使っています。
 現在、祇園祭山鉾町たくさんある中でこのような密接な関わり方をしている家も非常に少なくなってきているとも思います。
■祭りの準備が始まりますと、家の蔵や、円山公園の収蔵庫から道具が出され、うちの店の方に運びこまれます。
そして、いよいよお飾りをする時に神事係りが参りまして合図の太鼓をンドンと鳴らしながら町内を1〜2周するんです。
私は子供のころから、その太鼓が聞こえてくると、"あ〜、お祭りなんや!"という、本当に心がわくわくする瞬間を迎えます。

■私が女性としての女性からのお話ですけれども。
 私、今もって、なんで自分が女として生まれてきたのか非常に悔しく思っています。
鉾に乗る囃しかたも男性ですし、お供をするのも男性です、もちろん山を担ぐ人も鉾を曳く人も男性で、女性というのはいくらやりたいと思っても女である以上なんにもそういった場面に参加することができないんです。
ただ、子どもからそういったどうにもならない悔しさとか辛抱とかが祭を楽しみに思う気持ちが大人になってからこまごまとした男性の方、当主なり父親の晴れ姿をささえる素地になってきたのではないかと思っています。
■お祭りの来客の備えに対する設えをしたり、晴れの料理を作って備えたり、華を生けたり、お香を焚いたり、家の中を奇麗に清めたり、お客様を迎える。
そして私どもの店の間を清めてお飾りをする、そういった女性でなければ行き届かないこまごまとした準備も数多くあります。
■祇園祭における女性の一番の晴れの瞬間は、やはり巡行の日の朝、さあ出発だという瞬間です。
というのは、山が実際に動くところを見るのは1年に一度で、巡行の朝だけなんです。
 当主の上下着付け、晴れの正装をきちんと整え、そして山も奇麗に飾り付けられ、山も鉾も曳き手や担ぎ手の方がいらっしゃらなければ一寸足りとも動かないわけです。
その曳き手の方々の装束も女手でこまごまと準備をして整えて、そして「自分の我町」を自分の家の玄関から見送るといった瞬間を晴れとして年に一度送っています。

■ 祭りの時の催し、一品の食材は?
■うちの場合は財団として建物を守るということになりましたので、今後もずっと「伯牙山」の飾り所として、伝統を継承していくということになっています。
 祭りの期間中「伯牙山」の会所としては店の間は何方でも通りかかりに「伯牙山」の御神体、他を見ていただけるということになっています。
■杉本家保存会といしては、14日から16日の3日間、屏風飾りを有料になりますが一般の方にも見ていただく機会を設けております。
これは2年前に財団法人京都市文化観光資源保護財団という所と私どもの財団と協力して個人の屏風祭の、屏風飾りを有料で公開しようと始めたもので、今年も引き続き財団の主催として一般に屏風飾りを公開することにしております。
祇園祭の時は「小芋を炊いた物」ですとか、「なすの揚げびたし」とか、季節のものを利用した物も数多く作ります。
 祇園祭というと「鱧祭」と言われますし、「鱧料理」とゆうことになっているようですすけれども、祖母から祇園祭で食べるお寿司は「鱧料理」の中の「鱧寿司」というのが「晴れ」の料理としてどういったお料理やさんでもだされたりすると思います。
しかし、私は祖母から祭りの「お寿司」は「鯖寿司」であることを聞いておりまして、うちの台所(納戸)には、何時も「鯖寿司」を作るための「竹の皮」が束にして入れてあったんです。やはりお祭りの寿司は「鯖寿司」なんです。

■女性が陰ながら責任を持って担わなければならないことは「祇園祭」の時って本当に多いんです。
自家製で「鯖寿司」を作るということもなかなか難しいことなんですが、私としてはできるかぎり祖母から伝え聞いているそういった「晴れ」の食というものを忘れず作り続けて行きたいと思っております。

 


■ 「守ろうという意識ではなく行事に生活が同化している」 【 村山 忠彦 】

■私の家は京都三条大橋の東側で店を構える「千鳥酢」(村山造酢)で、創業は江戸の中期、徳川吉宗の八代将軍の時代と聞いております。
しかし、私は江戸時代のことを知っているわけでもありません。1日々々を大切にすることが、将来に渡って店を継承して行くことになる思っています。
 東山三条も祇園祭の区域で、私も氏子でお千度参りには「祇園さん」でさせていただいておりました。ところが、東北のはてなのでお祭りと言いましても御三方のように晴れの場というのはほとんど無かったように思います。
ただ、氏子の一人でございますので子供の頃は祇園囃子を聞くと心踊った記憶があります。
そんな子供にとっての晴れの場は父がお客様を呼びまして仕出し料理を食べ、そこで接待をする。そしてそれが済めば宵山に寄せていただくとでした。
しかし、 私にすれば中ではなく、外から見ているお客様の1人である感じがしました。
本当に内側からようやく解らせていただいたのはこういったボランティア活動をさせていただいてからでございます。
■会社は祇園ですけれども、家は左京に住んででおりまして又別の御社があります。
町内の皆様はそれをするのが邪魔臭いと言います。そして今年はやめとこうやというふうな風潮になっています。
それは「祇園祭」と比べて何が違うかというと、考えてしまいます。

■私が一番大切にしているのは、やはりお正月とお盆です。
 7月が過ぎて8月になりますと、うちの父は今まで続いてきた先代の名前(改名)を卒塔婆に必ず1枚ずつ書きます。そうしますと50枚くらい卒塔婆を書かなければなりません。お寺様は「先祖代々」で良いと言われますが、それをうちの父は毎年書いています。それを16日の朝には新京極の正願寺様へ持って行くわけです。
そしてお盆にはお精霊さん(先祖)が我が家に来られるということで、13日〜16日の朝まで、 毎日々々お精霊さんに差し出すご飯等が替わってきます。それを私の母がやっています。
 お正月でも年神様が来ますからそのお迎えのために鏡餅を10何個も作って醸造蔵に捧げるわけです。
■今、御三方の話しを聞いておりまして、私も長年やっていますと1年間の生活の中にお祭りの行事が組み込まれているような感じがしました。
それは決して守ろうという意識ではなく行事に生活が同化していると申しますか、生活の中にそういうことが組み込まれている。そうすることが、「例年通り」あたりまえで、だからだからこそ、長続きするんではないかという気がします。
そしてお祭りという風習、なんの為にしているかという「原点」、伝統文化を守ということは先人の生きた証しを守ることではないかなと思うのです。
ですから、それを絶やすことは先人の生きざまを放り去ることにも繋がるとおもうのです。お盆や正月に同じ事をする、それを違えると気持ち悪くなります。
そういうことで、お正月とお盆だけは、生活の中に組み込まれていると思っています。
「例年通り」ということが物事を継承していく大きな力となっていると御三方の話しを聞いてそう思いました。

 


 ラウンド 2 】 ■ 「ボランティア」との関わりについて。
 
■ 20年ボランティアとして努めてきたこと?
■ 神事であり、アルバイトとは違う、できるだけ公平感をもって
 【村山 忠彦】

■今年は32基の中の20基を任されていますが、残りの12基の山鉾様はアルバイトの方を雇われてされていると思います。
我々ボランティアとしてはやはり「ボランティア」でさせていただく場合と、アルバイトの方では見た目でもどこか違うなというふうに思われたいです。
 最近、祇園祭もショー的な部分も増えてまいりましたけれども、あくまで神事なので、鉾や山についている物は全部神様に繋がるものであることを心がけ”曳き綱は跨がない。”、”「茶髪」ではできるだけ参加しない。”そういうことなども当初からあり、現在もそのようにしています。
又、”さわやかに曳っ張っていただく”ようにしています。特に御池通りになりますと、皆様疲れてきます。そして鉾と鉾の間隔も長くなってきます。そういう中で曳き手がだらだらしていると観覧されている皆様に”これが本当に日本三大祭か?”と印象を持ってしまわれたら京都の為にもなりません。
以上のようなことを中心に毎年のオリエンテーションで申し添えております。
■それとボランティアの皆様にはできるだけ公平感を持っていただくように、内部としては心がけています。
鉾町の方からはできれば毎年同じ方に来ていただければ「オリエンテーション」もたいしてしなくて済むのではと言われています。
しかし今年、20基をお借りし、そして20年ずっと参加していただいている人で「長刀鉾」を1度も曳いたことが無いという人もいます。それでも今年、参加していただいています。
それは、いろいろな鉾、山を曳いていただくことで、公平感を持って参加していただけることがボランティア活動を長く続ける大事なことだと思っているからです。
「今年はあなたは何々鉾ですよ!何々山ですよ!」と参加人数から必要な人数をできるだけ公平にうまく割り振る作業は非常に大変ですけれども、できるだけボランティアの皆様に公平感を持っていただくように、私ども内部として心がけています。

 

■ 今後ボランティアに期待されることは?
日本のすばらしさ、京都のすばらしさを体に焼き付ける活動に
     
【杉本 節子 様】
■この祇園祭というのはやはり「都の祭」であって、毎年々々「例年通り」7月17日に巡行が執り行われることは、この日本の国が平和であり、そして祭を支えるいろいろな役割をになっておられる方々が健康でいなければ、何一つ欠けてもきちんと巡行は成り立っていかないものなんだなと思うのです。
 3年ほど前でしたか、海外からの留学生の方ばかりがうちの曳き手のボランティアとして来て下さった年がございました。
それは、ヨーロッパからの方もいればアジアからの方もありました。 それでいろいろな国、地域の方が祇園祭にボランティアとして参加していただけることはその国の平和といいますか、みんなの健康ということ、その大切さ、幸せさということをその年強く感じました 。
このボランティア活動が京都で体験された方々”日本のすばらしさ、京都の素晴らしさ”というものを心に体に焼き付けていただく活動になっていけばというふうに願っております。期待しております。

■ 20年のエピソードは?
一所懸命、みんなで参加したいという気持ちを今後も繰り返し 【松村 篤之介 様】

■20年前、私が担当でこの場でオリエンテーションがあり、伊住会長、連合会からは田中会長がお話されたことが、昨日のようにまぶたに浮かびます。
 オリエンテーションでは皆様町内ごとに集まりまして、当日ご出席の方にこうしてください、ああしてください、とご説明させていただいたんですが、おかげで、20年間大過無く、問題がほとんど無しに現在まで来ております。
これはやはりボランティアの方々の意識、この祇園祭に参加するんだという意識が年々強くなってきている証拠ではないかなと思っております。

 ここに17〜18年前の資料を持ってきたのですが、昔の書類の中に私がメモ書きしている内容は”朝食をしっかり食べてきて下さい。”とか”神事でございますので「禁煙」でございます。”とか”タオルは必ず持ってきてください。””白いパンツをはいて来てください。””指輪、時計ははずしてもらいます。””貴重品等々はリーダに預けて巡行して帰ってきてから責任をもって配布させていただく”とゆうようなことです。

このようなことを毎年毎年もうしあげ、そして、それを実行していただく。困るのは慣れていただいたのに来年、また違う方がおいでになりますので、一からお話しなければなりません。しかし、おかげさまで、今まで、無事故というふうに言っても良いんではないかなと思います。
 会長はじめ、皆様がそのようなことを心がけてご指導いただいているおかげだと、感謝申し上げております。
■ただ、時代の流れがあります。 3、4年前に頭の髪をちょっと違えてこられた方がおられ「ちょっと困りますね。」と言い、ボランティア本部に代わりのお願いを言おうとした時に、その仲が3、4人かかりまして、近所のコンビニから黒く染めるものを買ってこられ、「お湯を沸かしてください。」ということで、目の前でその1人の髪を黒く染めてしまったということがございました。 なんと今の人は変わり身が速いというか(笑い)、へっ!と思いました。
これは、みんな一所懸命で、なんとか参加したいという気持ちがありありとわかりました。大変良かったなと思っています。
ボランティアの担当は大変ご苦労いただいているようでございます。 これからも、そのようなことを繰り返しやってくると思います。どうぞ、今後ともお世話になりますが、よろしくお願いしたいと思います。

 

■ これからに向けて
■ 内なるものが外へ出て喜ばれるような状態が目出たい祭になり続ける 【吉田 孝次郎 様】

■我々がボランティア活動を受入れる時に一番心配したことは、安定して毎年々々きちっとしたお手伝いがお願いしてできるのかどうかとでした。
 戦後間なしに学生達の生活が苦しかった頃に祇園祭の曳き手でなにがしかの日当を得ることが学生達にとってはめしを食っていく上で非常に大事でその頃は集まりが非常にきっちりしていました。それがだんだんとサークル活動の費用をまかなうというようなことになって不安定な要素があった時に我々はこの曳き手ボランティアに助けられたなという印象です

私の町内では、それまでは学生アルバイトをお願いしていました。その中で非常に熱心なグループが育っておりまして、「六若組」グループを作りまして、年々自分たちの後輩を推薦して10名ほどの北観音山の一番細かな仕事を整えてくれています。このグループが巡行の時にも加わりまして、(プラス)30名のボランティアの方で非常に整然とした巡行ができるのを感謝します。

■今日このシンポジウムで「初心に返って原点を」というようなご挨拶もございましたが、私は年々このボランティア活動というのは良くなっていると思います。
  最初はちょっと高ぶった印象さえも受けたのですが20年たって非常に安定している、町内と推進会議の方々の関係もしっくりいっていますし、非常にけっこうなことだと思います。
ボランティアを受け入れたということは、それまでは各町内を基準にして氏子の祭を強く持っていたわけですが、ボランティア活動を受け入れて20年、だんだんと祭に一般市民の参加が可能になったんだなと思います。 この面から言っても町内、氏子という概念を超えて、京都市民を巻き込んでの祭の姿、そういう要素を持つことは非常にけっこうなことなんだろうと思います。あとの12ケ町がどうなるか分かりませんが、今後もそういう方向が良いと思います。
■北観音山の特殊な事情を申しますと北観音山では巡行が終わった時に「祝い締め」という短かな、いわゆる三本締めを囃し方を中心に行い、1年の祭の締めくくりにしておりました。
この「祝い締め」は囃し方を中心とした非常に内輪なものとして数百年行ってきたのですが、ボランティアを受け入れて3年めに、ボランティアが町内全員と観客の全てを巻き込んで、この「祝い締め」をいたすようになりました。
いわば内輪でやっていたものが外へ出ていったんですね。町内の囃し方以外の役員も永らくその「祝い締め」に参加しなかったんですが、この頃では会合をする度に「祝い締め」というもので締めるようになりました。
  皆様からの刺激を受けて内なるものが外へ出ていって、しかも皆様にそれが受け入れられ喜ばれているような状態、こういう状態を今後も維持していくことができれば、目出たい祭になり続けるだろうと思います。

 


【 まとめの挨拶 】(村山忠彦)

■今日のシンポジウム少し時間が少なかったかもしれません、しかし、それぞれ山鉾町で生活されている方の思い、又行事的なこと十分お解りになったと思っております。
又、御三方からは今後、私どもボランティアのメンバーに対して非常に激励を頂戴いたしましたことに本当に有り難く思っております。
 20年、これから又新しく心新たにしてボランティア活動をさせていただくわけですけれども、やはり、変えてはいけない所と変えるべき所「不易流行」という言葉がありますけれども、その時代時代に応じて変えていかなければならない部分、それと変えててはいけない部分がございます。
私ども、当初、2つの理念があると申しました、この理念だけは、変えずに参加される方々にも十分訴えながら時代に即してこのボランティア活動を20年々々と歴史を積み重ねて行ければと思っております。

本日は早朝より御集まりいただきまして本当にありがとうございました。又、御三方には御忙しい時間、御時間を頂戴いただきまして、本当にありがとうございました。
鉾町の皆様方、ボランティアの皆様方、今後もどうぞよろしくお願いをいたしまして、私の閉会の挨拶に替えさせていただきたいと思います。
本日はどうもありがとうございました。

KYOTO GIONMATSURI VOLUNTEER 21,Kyoto,JAPAN
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